『秒速5センチメートル』映画の解読/毒に役立つ漫画版レビュー

アニメ映画の『秒速5センチメートル』は結末が気になる作品だ。単純なハッピーエンドではなく、暗いだけのバッドエンドでもない。なまじ希望のようなものを漂わせる曖昧なラストシーンなので、主人公がその後どうなったのかとても気になる。(映画のレビューはこちら)

関連作品を調べたところ、小説は監督の新海誠自身によるものと、加納新太の『one more side』が2本出ている。マンガ版は清家雪子による2巻組み。いずれも映画をベースにしつつ、新要素も追加しているという興味深い内容だ。

とりあえず『秒速5センチメートル』の漫画版を読んでみたので、感想をメモしておきたい。原作から抜け落ちていたエピソードが補足されていて、格段にわかりやすかった。もし映画を観てもやもやした気持ちになりラストが腑に落ちない人は、マンガも読んでみることをおすすめする。

マンガ版は説明が詳しい

『秒速5センチメートル』のマンガ版は、映画の中で欠落していたディティールが説明されている。むしろ詳しく解説されすぎて、ほとんど別の作品のようにも感じられる。1時間の短編ドラマだったものが、連続テレビ小説のように長々と語られる感じだ。

おかげでアニメ版では不確かだったストーリーの背景がよくわかった。貴樹君が宇宙飛行士になりたがっていたとか、高校時代の文通が次第にフェードアウトしていった理由などは、おおむね映画を観たときに推測したとおりだった。

お節介なことに、マンガでは二人が中学時代に渡せなかった手紙の内容まで明かされる。恥ずかしながらこれを読むまで、貴樹君が岩舟に手紙を書いてきていたとは知らなかった。駅のホームで風に飛ばされた手紙は、東京で受け取った明里のものだと長らく勘違いしていた。

花苗と理沙のエピソード追加

マンガ版で大きく追加されているのは、主人公を取り巻く澄田花苗と水野理沙関連のエピソードだ。

花苗の方は種子島での別れ際の告白シーン、そして完全なオリジナルとして、大人になった花苗の後日談が収録されている。最後は東京で貴樹と再会する(?)という思わせぶりな終わり方をしており、明里よりもヒロインらしく扱われている(明里は別人と結婚してしまったので、これ以上発展させようがない)。

水野理沙は、映画版のイメージではネクラな事務職員という感じだった。顔も似ているので、たいていの人は初登場の際、「メガネをかけた明里」と誤解してしまうだろう。

アニメでは、貴樹君の落ちぶれた境遇を「付き合う女性の劣化(明里>花苗>理沙)」によって表現しているようにも見えた。せいぜい理沙は「大学以降に貴樹が付き合ってきた女性群の一サンプル」という扱いだ。作中出てきた「食べかけのスパゲティー」くらいの薄い記憶しかない。

そんな曖昧な印象しか受けなかったキャラだが、マンガでは異例のページ数を割いて丁寧にフォローされている。貴樹との馴れ初めから、温泉旅行に行くシーン、そして因縁の地である栃木に一緒に向かう話まで追加されている。

水野理沙にとって結果はさんざんだったが、主人公が心を開くきっかけをつくれた唯一の女性といえる。彼女の活躍と貢献に対して、貴樹の扱いはひどすぎる。特に岩舟でのエピソードは、映画版になかった彼の特異性をアピールする演出になっている。

各話に見られる貴樹の異常さ

『秒速5センチメートル』のアンチがいるとしたら、その理由のひとつは「主人公、貴樹の冷酷さ(未熟さ)に耐えられない」という点だろう。

1話で明里の転校を伝える電話に対して、なぐさめや前向きなセリフひとつ言えない貴樹君はひどい奴だ。たとえ小学生という設定にしても、男としてはもう少しフォローできたのではないかと思う。

映画やマンガを見ながら、「今すぐ彼女に直接会いに行け」と貴樹に言いたくなる。そうすれば、その先数十年も負い目を引きずることはなかったかもしれない。

マンガ版ではそのまま卒業式の日まで、ろくにコミュニケーションできないまま別れることになる。彼の頼りなさに比べると、栃木に引っ越してから半年経って文通を始めた明里の方がよほど勇気がある。

2話では、あからさまにアプローチしてくる花苗に対して中途半端な対応しかできない。花苗が自分から告白できなくても、好意を寄せているのは明らかだ。その気がないなら、きっぱり拒絶する方が彼女のためだ。

「栃木の恋人ほど魅力はないが、現地妻はキープしておきたい」という下心なのだろう。たとえ振る側でも、別れ話を切り出すのは精神的につらい。お互いにそういう修羅場を見たくないから、だらだらとよくわからない関係が続いているだけだ。

そした3話。マンガ版に出てくる見せ場のひとつが、理沙ちゃん岩舟置き去り事件だ。もし原作を知らなければ、ここで主人公は過去のトラウマを克服して、水野理沙とよりを戻す流れにしか見えないだろう。そこまで持ち上げておいて、彼女を田舎の駅に捨ててくるような仕打ちはひどい。

この追加エピソードによって、貴樹の罪深さが強烈にアピールされる。たとえ初恋PTSDだったとしても、助けてくれようとしているレディーに対して、さすがにあれはない。

映画では何となく主人公に同情する立場だったが、マンガ版での貴樹の振る舞いには苦笑してしまった。こんな奴に彼女なんていらない。一生、携帯でポエムを書いて過ごせばいいと思う。

マンガ版のラストシーン

物語の因果関係をすべて「主人公の精神異常」で片づけてしまうのは安易な解釈だ。『秒速5センチメートル』の本当のバッドエンドとは、貴樹がそのまま中年のロリコンになってしまうこと。「14歳のアナベル・リー」を忘れられないあまり、ハンバート教授のような変質者になってしまうと笑えない。

しかしマンガ版の第3話では、貴樹君の更正がわかりやすく表現されている。夢だった宇宙関連の会社(身の丈に合った零細企業っぽい)に再就職している。そして「そういう自分を受け入れよう…これからは…誰かと本当に向き合えるように」と前向きな決意を表明している。

偶然再会する理沙に声をかけることはできないが、最後の踏切シーンではアニメと同じく「憑き物がとれた」ような朗らかな顔をしている。

そしてマンガでは貴樹も去った踏切に小学生の理沙が立っていて、手を振って別れを告げる。これは明らかに貴樹の再出発を象徴するポジティブな終わり方だ。映画でもこの演出があれば、絶望から救われる観客が増えたと思う。

貴樹の心理分析

マンガ版もじっくり読んで、貴樹君が陥っている精神状態を理解できるようになった。

まず客観的な状況として、貴樹君と明里ちゃんはともに転校生である。しかも小中学校で地方と東京を行き来するなど、回数が多く移動距離も長い。お互い虚弱体質で読書好き。性格が内向的・表層的になるのは仕方ない。

転校慣れした主人公は、体裁だけとりつくろって周りの人たちと同調するのは得意だ。しかし上辺だけで生きる代わりに自分の本心を見失うなってしまい、他人と深いコミュニケーションがとれなくなる。

本当のところ、彼は「他人に心を開けない」のではなく、「自分でも本心がわかっていない」のだ。だから果てしない宇宙探索のように、目標が漠然としたまま理想を追い求めることになってしまう。

このナイーブな性格が影響するのは女性問題だけではない。IT企業に就職して燃え尽き、仕事を辞めることになったのもそれが一因。貴樹は「対外的な器用さ」と「内面的な不器用さ」をあわせ持つタイプで、自分でも生きにくさを感じている。

さらに子供の頃から転校を繰り返したので、「人間関係がリセットされる」という経験に慣れている。そのため、恋愛でも仕事でも執着することなく簡単に諦めることができる。逃げ道があるためストレスは減らせるが、ここ一番という場面で踏ん張れないことにもなる。

問題は種子島での外的環境

中学以降で首都圏から地方に引っ越すと、なかなか現地で新しい友達をつくりにくい。それは貴樹君の部活動でも表現されている。中学では団体競技のサッカー部に所属していたが、高校では個人競技の弓道部に変わっている。

種子島ではクラスメートと雑談する以外、貴樹君の男友達はひとりも出てこない。中学時代に東京でませた恋愛経験をしていることもあり、田舎の同級生を見下す気持ちもあるだろう。

島での孤独をまぎらわす手段として、脳内の妄想に明里を利用しているように見える。夢の内容を携帯メールに打ち込んでいる間は、友達のいないことや、大学受験のプレッシャーから逃れられる。

貴樹が再会できない本当の理由

高校生の貴樹はもう中二病を通り越して、自分の頭の中でしか生きていない。種子島の雄大な景色よりも、夢の中の異世界に魅力を感じている。そして客観的には「もう終わっている」明里との関係を引きのばして、自分の願望や理想を勝手に投影しているだけだ。

少なくとも高校を卒業してから、会おうと思えば明里に会えた。彼女も東京の大学や短大に進学していたかもしれない。しかしそうしなかったのは、貴樹の臆病な性格というより、愉快な妄想をやめたくないという利己的な理由からだ。

貴樹が明里に再会することの潜在的リスク

  • 他に男がいる。自分のことなど、とっくに忘れられている
  • 彼女が太ったり不細工になっていたりして、幻滅する

実際に岩舟に会いに行ったら、明里は栃木のマイルドヤンキーと化していて、すでに子供も一人や二人こしらえているかもしれない。ナボコフの『ロリータ』と同じ、ありふれた結末。初恋依存症にかかっている貴樹君は、その現実を確認したくないのだ。

マンガを読むと客観視できる世界観

『秒速5センチメートル』のマンガ版は、アニメ原作とは別の世界線で進行した物語だと思う。マンガ側の解釈を知ると、映画の神秘性が薄れて、登場人物たちの置かれた状況を把握できるようになる。

もしアニメもマンガと同じくらい説明が丁寧だったら、見る側が混乱せずに済んだだろう。別に論文やビジネス文書ではないので、そんな必要はない。映画ではあえてディティールを省略することにより、「貴樹が精神的に引きこもっている間に失った年月」を表現したように思われる。

マンガ側の世界から見ると、こんな退行的で気味の悪い主人公に共感するのは馬鹿らしくなってくる。20代後半になっても『若きウェルテルの悩み』を抱えているようなストーカー野郎は、勝手にくたばればいいのだ。

成長できなかった貴樹の哀れみ

振り返れば中学・高校時代など、あっという間に終わっている。人は年齢を重ねるにつれて、良い意味でも悪い意味でも変わらざるをえない。マンガ版で追加された明里の独白には、「精神的に成長できなかった貴樹」との対比が描かれている。

私はちゃんと、思い出にできたよね?

ただ、ただ、あなたの幸福だけを祈れるくらいに

これを読んでなんとなく、山崎まさよしの主題歌より7年古いヒットソングを思い出した。これが明里の選んだ道であり、健全な青少年の成長戦略なのだ。

もうあの頃の私じゃない、同じ笑顔はできなくても、手を伸ばす勇気にかえた

…(中略)…

今ならもっと、素直に笑える、最初の春に、負けないくらい

Dreams Come True「笑顔の行方

『秒速5センチメートル』の映画にとらわれるタイプの人は、きっと貴樹君と似たような性格傾向があるのだろう。より表現が具体的かつ客観的で「地に足が着いた感」のあるマンガ版を読めば、アニメ版の解毒剤として役に立つと思う。

秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンKC)

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