満足した豚より不満足なソクラテス~ミルの『功利主義論』感想

哲学マンガの『ここは今から倫理です。』にJ・S・ミルの引用(豚とソクラテス)が出てくる(単行本2巻の第8話)。気になって出典元の『功利主義論』を読んでみた。

翻訳は少し古い中央公論社の『世界の名著』シリーズ。豚・ソクラテス以外にも功利主義の擁護および発展的な解釈として興味深い点が多かった。感想をまとめてみようと思う。

豚ソクラテスのネタ元は『功利主義論』

マンガにはいちいち出典元が載っていないので、ネタ元は自分で調べなければならない。豚とソクラテスの比喩は、ミルの『自由論』でなく『功利主義論』の方に書かれていた。

『自由論』は岩波文庫、光文社文庫、河出文庫と翻訳が豊富にそろっている。しかし『功利主義論』は京都大学学術出版会の近代社会思想コレクションという、高価な単行本でしか手に入らない。

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

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J・S・ ミル
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そこで図書館から中央公論社の『世界の名著』シリーズ第38巻『ベンサム、J・S・ミル』を借りてきた。上記2つのミルの著作に加え、ベンサムの代表作『道徳および立法の諸原理序説』も収録されている。

功利主義の原典を調べるにはこれ一冊で足りるというくらい、よくまとまった書籍だ。ハードカバーのオリジナル、ペーパーバックの新装版とも絶版になっているようなのが残念。通販では古本しか手に入らない。

高校生の頃は、それこそ倫理の教科書を参考に図書館で読んでいた思い入れのある『世界の名著』シリーズ。およそ20年振りに、未読だった功利主義関連に目を通してみた。

快楽の量と質

『功利主義論』は、全体として当時批判にさらされていたベンサムの「功利」または「最大幸福の原理」というアイデアを擁護する論調になっている。さらにこの本では、快楽の量だけでなく質も考慮すべきという、ミル独自の改良案も提案されている。

功利主義を弁護しつつも批判的に乗り越えるというコンセプトのためか、どうも中途半端で矛盾の多い論文だと感じた。ベンサムの批判者に対して日和ったような主張が多く、そのため功利主義の魅力であるドライな公平性、民主主義といった持ち味が薄れてしまっている。

これが書かれた18世紀は、前世紀末にニュートンの『プリンキピア』が出て、自然科学が急速に発展した時代であったらしい。そうした科学的原理と同じように、法律・政治・哲学を論理的に整理しようとしたのが思想界のトレンドだったようだ。しかしミルが意図したような論理的明快性はそれほど感じられなかった。

最高善は証明できない

ミルはこの本で自身の正義論を数学のように証明しようとしている。冒頭の問題提起には、かなりワクワクさせるところがある。

究極目的にかかわる問題は、直接証明できるものではない。善であることを証明するには、証明抜きで善と認められるものの手段であることを示すほかない。

たとえば医術は健康を増進するから善なのだけれども、健康が善であることはどうすれば証明できるのだろうか。また、音楽芸術が善であるのは、とりわけそれが善を生みだすからであるが、快楽が善だという証明をどうしてするか。

『世界の名著 38』 ベンサム J・S・ミル 伊原吉之助 訳

われわれが無意識に善とか徳だと価値を認めている概念について説明しようとすると、同語反復的にならざるを得ない。公理を疑うと、たとえば「人は幸福になることが幸福なのか」というパラドックスに陥る。つまり議論の大前提というか、「それを言ってはおしまい、話にならない、進まない」というレベルの話。

ミルは賢明にも、最高善については証明できないのだから前提にしか使わないと態度で進めている。しかし本書ではこの「究極目的」の存在を前提とした決めつけが多いので、煙に巻かれたような印象を受けてしまう。

ミルは1章の総説でカントの定言命法を論理的でないと批判している。しかしミルの主張も論理的に飛躍してしまっている。『功利主義論』は正義に関する論証というスタイルをとりつつも、まったく論理的でないエッセイのような書物だった。あまりにもミルの独断というか、スノッブな趣味に満たされている。

快楽の質的比較は循環論法

これより前に書かれた『論理学体系』という本はテキストにも使われたそうだ。ミルといえば、当時は論理学の権威的存在だったのだろう。

19世紀のイギリスと21世紀の日本では考え方もだいぶ違うと思うが、単に自分の理解不足だけが原因ではないと思う。『世界の名著』編者の関嘉彦も序文のなかで、快楽の質的区別に関する定義を循環論法と指摘している。

あるものが望ましいことの証明は人々が望んでいることだといって、望まれるものと望ましいものを同一視している。質的区別についても品位のある人の選ぶほうの快楽がより価値ある快楽としているが、それは品位ある人とはより価値ある快楽を選ぶ人のことであるとの循環論法にならないか。

『世界の名著 38』 収録「ベンサムとミルの社会思想」関嘉彦

編集者が批判している『功利主義論』の該当個所は、おそらく以下の2つの部分。

二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。

(…中略…)

二つの快楽のうち、どちらがもつに値するか、また二つのあり方のうち、どちらが快適か――その道徳的特質や結果は別問題とする――という問題については、両方の知識をもつ有資格者たちの判断が、また判断が食いちがうときにはその過半数の判断が、最終的なものとみとめられねばならない。

『世界の名著 38』 ベンサム J・S・ミル 伊原吉之助 訳(以下同じ)

確かにミルのようなインテリ層がインタビューの対象なら、多数決で高尚な快楽が選ばれるだろう。しかし当時の労働者階級にアンケートを取ったとしたら、結果は変わってくるはずだ。

世の中にはシェイクスピアを読むよりシンプソンズを見る方が好きな人がいる。しかもそちらの方が圧倒的に多数派だ。

第4章で、ミルは次のようにも述べている。

ある対象が見えることを証明するには、人々が実際にそれを見るしかない。ある音がきこえることを証明するには、人々がその音をきくほかない。さらに、われわれの経験の他の源泉についても、同じことがいえる。同じように、何かが望ましいことを示す証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということしかないと、私は思う。

視覚や聴覚も厳密には人によって見え方や聞こえ方が異なる。しかし、善や徳といった倫理的価値観は見たり聞いたりするものではない。何が快楽で幸福で望ましいかという考え方は、人によって180度違ったりすることもままにある。

本当は豚<ソクラテスでない

有名な豚とソクラテスに関する比喩を見てみよう。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい。

ここで豚が登場する理由は、これより前の個所で「エピクロス派の人たちが侮蔑的になぞらえた動物であった」からと言及されている。

ミルにとっては別に犬でも虫けらでもよかったのだろう。「豚に真珠」の出典は新約聖書。今も昔も豚といえば下劣なもののたとえとして通用したようだ。

『ここは今から倫理です。』に登場するセリフ「悩まぬ豚より悩めるソクラテスであれ」は、ミルの表現を一部省略している。世間一般では、

  1. 満足した豚<不満足な人間
  2. 満足した馬鹿<不満足なソクラテス

をまとめて「満足した豚<不満足なソクラテス」という格言が普及している。しかし原典では「満足した馬鹿」と「不満足な人間」の優劣については述べられていないので、厳密にいうとこれは正確でない。

ソクラテスは豚になれない

豚とソクラテスに続く文章もかなり興味深い。

そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

ここにミルの重大な誤りがある。

豚はそもそも豚並みの知能や感受性しか持たないのだから、何を主張しても人間にはかなわないと述べている。しかし人やソクラテスは決して豚の身になったことがない。われわれは豚の快楽を実際に体験して評価することはできないのだ。

たとえば豚の脳は人より小さいが、嗅覚は非常に発達している(昔は麻薬探知にも豚が使われた)。もしかすると豚が残飯を味わう快楽とは、人間が感じるより何百倍も甘美な体験なのかもしれない。

ミルの認知バイアス

道端に寝そべっている犬や猫を見て「なんか人より幸せそうだな」と思う人は自分だけでないだろう。ミルの頭の中には最高善と同じく「豚<人間」というバイアスが存在していて、あたかもそれが公理(axiom)のようになってしまっている。

逆にもし人の知性をはるかに超えるアルファ・ケンタウリ星人が現れて、「人間とはなんと低劣な生き物であることよ」と憐れんだとする。しかし彼らは人の喜びや悲しみを実際に体験したことはない。われわれからすれば、頭の良すぎるアルファ・ケンタウリ星人の方が、かえって不幸に見えるかもしれない。

豚も人のことをどう思っているか知れたものではない。ミルは豚の意見をはなから否定する。しかし結局のところ、豚も人もアルファ・ケンタウリ星人も、お互いの満足度についてはあずかり知ることができない。

豚の快楽についてはミルの論点でなく、以上の議論は揚げ足を取っているにすぎない。しかし、当時のイギリスにおける一般・労働者階級をミルが豚並みに見下していたことは確かだ。そういう階級意識はかつて普通に存在したものなのだろう。

人の知性や感受性、趣味の良し悪しといった先験的な決めつけが、ミルの論証の前提になっている。この点は多少割り引いて読むしかない。

不満足な豚より不幸せなソクラテス

豚ソクラテス比較の前段階で、幸福と満足は違うと説明されている。ミルの説明をまとめると、感受能力が低い人(豚や愚者)は一定レベルの俗な快楽で満足するが、知的な人間は目標が高いため常に不完全にしか幸福を味わえない(そのため不満足な人間の方が偉い)という流れ。

要するに満足<幸福なのであって、ソクラテスは「飯が足りない」から不満なのではなく、「世界平和を実現できない」など抽象的な悩みを抱えているから不幸なのだ。ミルによると、感受性・共感力の違いというのが家畜と人間を見分ける重要な指標であるらしい。

感受能力の低い者は、それを十分満足させる機会にもっとも恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。

この点を例の格言に反映させると、「不満足な豚より不幸せなソクラテス」と修正した方がミルの主張にあっているように思う。ただし原文ではどちらもsatisfied / dissatisfiedなので何ともいえない。

他人を傷つけないということ

『功利論集』の終盤には、『自由論』で有名な「他者危害の原理」に近い表現が出てくる。正義や権利という観念について、さまざまの説を検討したうえで、「安全の利益」「他人を傷つけない」という道徳律がもっとも重要と主張している(これも特に厳密な証明という感じではない)。

ミルの定義が論理的でなくても説得力があるのは、以下のようにプラグマティックな運用について述べられているからだ。

この道徳を守るかどうかで、ある人が人類の一員としてふさわしいかどうかがためされ、決定される。なぜなら、これによって彼が、接触する人々の厄介者となるかどうかがきまるからである。

人間社会でもっとも優先されるのは、「こいつは敵か味方か?」とすばやく相手をジャッジすること。もし判断に誤れば、善や幸福について考える以前に殺されてしまうかもしれない。

ミルは功利主義の先達であるベンサムに師事した父親に、英才教育を施されて育っている。そうした浮世離れした経歴にも関わらず、法律や政治に関わる言説は意外とリアリストだなあと感じた。

『世界の名著』の組版は秀逸

最後に余談。『世界の名著』はA5サイズとコンパクトな代わりに、今の基準からすると文字が小さい。本文はともかく、注釈部分はさらにミクロな文字なので、高齢者は読むのがつらいだろう。

しかし2段組みで詰め込まれたテキストは、ページをめくらずに前後を参照できるので便利だった。そして注釈が該当個所のすぐ左下に配置されているため、巻末まで行ったり来たりしなくてもスムーズに読み進めることができる。

世界の名著、ミル『功利主義論』

なかなかすぐれたレイアウトだと思うので、A4サイズくらいに拡大したワイド版としてぜひ復刻してほしい。古今東西の思想を集めた『世界の名著』シリーズを全巻持っていれば、一生暇をつぶせると思う。

たとえ復刊されなくても、市の中央図書館レベルに行けばたいてい蔵書として揃っている。ありがたいことだ。